先日紹介した千貫樋が架かる境川に
境川・清住緑地と呼ばれる湿地帯があるのをみつけました。
三島市と清水町の境、市街地にありながら、
湧水や様々な動植物が生息する
豊かな自然環境が残っています。
緑地帯は散策できるように整備されており、
自転車で走り抜ける人も見かけました。
この日はパンフレット入れも空っぽで
そろそろシーズンオフでしょうか
この緑地帯のすぐ隣には
古く奈良時代からの由来が残る丸池があります。
丸池と境川が合流して
狩野川へと流れは注がれているのだそうです。
これからますます空が青くなり
水のある風景も、ますます美しさを増す季節になります。
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2014年09月
境川・清住緑地
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三島市木町観音堂(三島夏まつり番外編)
先の三島夏まつりで登場した西本町のみなさんが
まつりの準備で集っていた観音堂です。
境内に入ると右側にたくさんの観音像が置かれていました。
これらたくさんの観音像は西国(さいごく)33カ所観音像で、
弘法大師西国33カ所巡礼に行けない人は
ここでお参りをすますことが出来るということで祀られました。
観音堂の正式名称は福聚山慈雲院と言い、
元々は小田原北条氏の守本尊で現在の神奈川県にありましたが
その後、下田の横川へ移り、そして1592年に
北条家の家臣によって三島の木町に移されて
三島の人々が木町観音堂と呼んで親しんできたそうです。
手水場にはこんな手書きの札も・・・
境内の右側には『言成地蔵尊』が祀られています。
『言成地蔵尊』を紹介するのはこれで二つ目ですが、
(もうひとつは東本町で小菊を供養している)
江戸時代に無礼打ちされた幼い小菊の母親がここ木町の出身で、
母親の悲しみと悔しさを和らげたいと念じて
町の人が建てたと伝わっています。
三島の、人情味豊かな町の成り立ちを今に伝える
木町観音堂です。
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千貫樋(せんがんどい)
千貫樋は、戦国時代(1555年頃)に作られた水道橋のような建造物で
三島市内の小浜池の湧水を灌漑用水として清水町に送るために
境川の上に架設されています。
以前は県道沼津三島線を歩けば平行している千貫樋を見ることができたそうですが、
今では建物が建ってしまい、探さないとわからないくらいになっています。
この社は水をお祀りしたものでしょうか、
千貫樋の上に建てられています。
残念なことに
この場所の町内の案内図には千貫樋が記されていません。
長い年月の間にこの歴史的建造物は人々の暮らしの中に
小さな用水路として溶け込んでしまったかのようです。
道路の上に立って右手には川が流れ、
左側は塞がれて建物が建っています。
千貫樋の交差点に建てられた看板によると、
天文24年 今川、武田、北条三家の和睦が成立した時に
北条氏康から今川氏真に聟引き出物として小浜池から長堤を築き、
その水を駿河に疎通させたという説が一般的に認められているようです。
はじめは木樋だったものが
大正十二年の関東大震災に崩落して
現在の鉄筋コンクリート造りになったそうですが、
それからも更に91年経って、傷みが進んでいます。
この日は千貫樋の橋脚を見つける事ができませんでしたが、
市内加屋町のあたりを探すと橋脚が見える場所があるそうです。
ちなみに、千貫樋の名前の由来として
1 架設の技術が優れていて銭千貫に価するから。
2 この用水が、石高千貫の田地を潤しているから。
3 建設費が銭千貫を費やしたから。
の3つの説が伝わっています。
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