三島市役所の前に「農兵調練場址」と刻まれた碑があります。
裏へ廻ると、
韮山代官で、幕末の国防に奔走した江川担庵(太郎左衛門)の名とともに、
『日本最初ノ農兵調練場』と書かれています。
三島の民謡「農兵節」は
幕末、韮山代官の江川太郎左衛門が、
それまで身分制度に縛られて帯刀が許されていなかった農民を
兵隊として調練した時に、行進曲として用いたのが始まりと言われ
また、
このメロディーは長崎留学から戻った家臣の持ち帰った
西洋のものと伝わっています。
写真は、三島夏まつりに登場した、
韮山代官江川太郎左衛門と踊りの連です。
衣装には、今では全国的に有名にな農兵節の歌詞がプリントされていました。
市内にある白滝公園には、三島市教育委員会によってまとめられた
農兵節の成り立ちから全国に広まるまでの話が記されています。
それによると、
幕末、農兵の調練に使われた行進曲のメロディーを聞いた三島宿の人々が、
当時の田植え唄や馬子唄の詞をつけて流行らせた。
その後明治・大正時代に「ノーエ節」として様々な替え歌で歌われていたのだけれど
昭和初期に尻取り唄の「農兵節」と「農兵踊り」を完成して
三島民謡として全国に宣伝したのが「平井源太郎」だったそうです。
こちらの碑には、
「富士の白雪 朝日に溶けて 三島女郎衆の化粧水」と刻まれています。
農兵節が尻取り唄と呼ばれるのはその歌詞に尻り取りを取り入れて
覚えやすくしてあるからですが、
この歌の底流にある「とけて流れる」は、
万物流転・諸行無常を歌い流していると云われ
文学的にはもとより歴史的にも情緒の深い鎮魂歌になっているという解釈もあります。
農兵節は
1番から9番まである歌詞が、次の様な内容で歌われていきます。
富士の白雪
↓
溶けて流れる。
↓
三島にそそぐ
↓
三島女郎衆
↓
お化粧が長い
↓
お客が怒る
↓
怒れば石の地蔵さん
↓
地蔵さんは頭が丸い
↓
丸けりゃ烏がとまる。
↓
とまれば娘島田
↓
娘島田は情けでとける。
↓
とけて流れてノーエ
農兵節の始まり、日本最初の農兵調練場址は、
三島市役所前。
大学キャンパスから自転車で10分です。